附属小について

本校の歴史

 伏虎山からながくのびる砂丘(附属小学校のある土地)を吹上の峯といい岡山といい奥山と言った。旧藩時代,ここに岡山文武館がおかれた。

 南は和歌浦の風光を眺め,西は紀淡海峡を経て遠く淡路島を望み,北は虎伏城(和歌山城)を仰ぎみ紀の川の流れを越えてはるか紀泉の連山に対する風光絶佳の土地である。

 慶応2年これが学習館とよばれ,文武合併の教授所となり,「藩士一般年令50才未満ノ者ハ必ス就学セサルヘカラサル者」とし,国学・漢学・蘭学・兵学・洋算・剣術・槍術・体術の教場がおかれ,紀州の藩立学校として栄えた。

 明治2年,藩制改革の際には学制を改革して四民のための学校となり,「館内の席次ハ身分ノ高卑ヲ論セス其学力ノ次序ニ拠ル」べきものとした。

 明治3年,本学のあとに兵学寮が設けられ,兵役志望の子弟を広く求めこれを入学させ,翻訳書をつかって兵学や地理歴史物理数学などを教授した。

 明治4年,置県の際,この兵学寮あとに県学がおかれ国学・漢学・洋学の3教場がおかれた。

 更に,明治5年学制の頒布により県学を廃して岡山小学をひらき,明治7年3月,岡山小学内に小学校教員取立学校を設け,教員養成機関として師範学校設立の端緒をひらいた。

 明治8年5月4日,岡山小学を和歌山師範学校とし,更に附属小学校がこれにともなって生まれた。

 わたしたちの附属小学校はこのような環境の中に生まれ,以来147年,岡山の松のみどりと共に育ってきた。

校章

和歌山大学教育学部附属小学校章

 図柄は,松・白菊に「附小」の文字を配したものである。
学舎が,古来,吹上の峯(奥山)といわれる地に位置するところから,砂丘にたくましく生い茂っている奥山の松と,また吹上の浜に咲き乱れていたという”吹上の白菊”をもって構成されたものと考えられる。白菊については,古今集に次のように記されている史実がある。

寛平の御時せられる歌合に 
すなはまをつくりて菊にの花うえたりけるにくわえたりける歌
吹上の浜のかたに菊うえたりけるをよめる
秋風のふきあげにたてるしら菊は
花かあらぬか波の寄するか

藤原朝臣

 (和歌山県史抜粋)

 制定については資料がなく明白ではないが,制定当時の大きさは,現在のものより横巾約1.5cm,縦巾約1cm大きく松・白菊・月桂樹かと思われるものをあしらい,中央に「師附」の文字があった。

 昭和26年,形をやや小さくし,文字を改め,図柄もやや単純化して(山本義次教官担当)現在に至った。
※吹上の白菊・・・俗称リュウノギク

校 歌

1.
 松のこずえを 出ずる朝日
 紀の川水に うつる夕月
 いつも 眺めのたのしきところ
 たぐいもあらじ わがまなびやは

2.
 みがきてのちに光る玉
 きたいてのちにかたきくろがね
 心も身をも育つるところ
 たぐいもあらじ わがまなびやは

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建物配置図